香港の対策は万全だったか?
2019年12月31日、中国政府から世界保健機構(WHO)に、中国湖北省の省都、武漢で「原因不明の肺炎」が発生したとの報告が入った。香港政府の対応は素早く、同日、衛生署は中国本土で報告された肺炎の症例を現地の病院や大学に伝えた(Hung, Walline & Graham 2020:163)。香港政府は、中国でのウイルス性疾患の流行と、武漢への最近の渡航歴があり発熱や呼吸器症状が出ている患者に対する警戒を怠らぬよう、現場の臨床医に呼びかけた(Hung, Walline & Graham 2020:163)。政府と医療従事者たちには、今回のパンデミックの発生に対応できる自信があったし、対策はできているという気持ちがあった。これは、2002年から2004年にかけて流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)の経験があったからだ。
それでも、新型コロナが香港社会に与えた衝撃は圧倒的で壊滅的だった。経済面では、今回のパンデミックが現状に暗い影を落とし、今後の成長を鈍らせ、失業率の上昇を招き、観光やホテル、ケータリング、小売業など、現地の「支柱産業」に深刻な影響を及ぼした。2019年3月下旬から続く社会的な混乱状況においてウイルスが大流行し、かつて栄えた香港経済は深刻な打撃を受け、15年間ぶりの財政赤字がもたらされた。この影響は、政治的な側面を考慮するとより一層複雑なものとなる。すなわち、大規模なデモや社会運動によって香港政府の信頼性と評判はこの1年で史上最低レベルに落ち込んだが、コロナが大流行する中で、香港政府は非難されるとともに頼りにもされる存在となった。最初に中国本土に対して、後に他の国に対して出入境ポイントの封鎖を実施し、ソーシャル・ディスタンスの確保やマスク着用を奨励し徹底化させ、ロックダウン政策を実行し、さらなる雇用の喪失を防ぐために雇用主に対して資金を供給するなど、政府は現在も積極的な役割を果たしている。
小売チェーン店の前でマスクを買おうと長蛇の列をつくる香港の人々。中国武漢での新型コロナウイルス発生以来、香港ではマスクが不足している(写真提供:ルイス・ツェー・プイ・ロン(Lewis Tse Pui Lung)、出典:https://www.shutterstock.com/image-photo/hong-kong-30-january-2020-people-1630888825)
続く景気の低迷と先行き不安
今回のパンデミックは2019年の大規模デモと相まって、香港経済に二重の痛手を負わせ、現地の産業や雇用機会に重大な損失を与えた結果、将来の社会的混乱のリスクを悪化させている。すでに縮小しつつあった現地の市場や企業に対するコロナウイルス大流行の悪影響は、2019年の社会不安がもたらした結果よりもはるかに広範囲に及ぶ。当時のデモが影響を及ぼしたのは、ホテルやケータリング、小売業や旅行代理店、交通機関やその他の娯楽産業などの主に観光関連産業だが、今回のパンデミックは、香港経済の中核を担う金融サービスや不動産、貿易、物流などを含むほぼすべての産業部門に損害を与えた。香港総商会の報告から、2020年の第一四半期のGDP事前推定値が、前年同期比でマイナス8.9%となることが明らかになった。これは1997年のアジア金融危機や、2007年から2008年にかけての世界金融危機における状況よりも、さらに深刻な市場の縮小と景気後退を意味する(Hong Kong General Chamber of Commerce 2020)。
また労働市場は不況のあおりをまともに受け、2020年2~4月の失業率は、1~3月の4.2%に比べて5.2%に急上昇した(Census and Statistics Department, The Government of Hong Kong 2020)。4月現在、仕事を失った人は20万人以上いる(Trading Economics 2020)。今年の大学卒業者にも、かつてない困難な時代が待ち受けている。求人数の55%以上が消滅し、2020年4月の香港の若年者失業率は8.1%に急上昇した(Chan 2020;Trading Economics 2020)。このような景気後退と雇用喪失という深刻で厳しい状況は、大規模デモとパンデミックが立て続けに起きた結果であるばかりか、将来的にはさらに深刻で長期的な財政難や政治的分裂、社会不安の原因ともなりうる。
新型コロナ禍の下、多くの香港市民が職を失い、差し迫った資金難と不況にあえいでいる(出典:https://www.shutterstock.com/image-photo/hong-kong-dec-21-old-lady-66727117)
消極的な、しかし決然とした政府
香港政府はこれまで、新型コロナウイルスの侵入と感染拡大阻止のために主導的な役割を担ってきたが、その対応の多くは物議を醸し、社会的に広く議論の対象となった。例えば、政府は感染経路の追跡と強制隔離の実施のために積極的な政策をとった(Wong, Kwok & Chan 2020:E511)。中国本土やその他の国・地域から香港に入境する人はすべて14日間の強制隔離を受け、感染対策のために指定された宿泊施設にて2週間待機しなければならない。また、隔離状況を監視するため、政府は海外からの旅行者にはリストバンドの着用を求め、帰国者の追跡と記録のために「居案抗疫(StayHomeSafe)」というモバイルアプリケーションのインストールを義務付けている。
だが、中国でのコロナウイルスの大流行に対して、また武漢に足止めされ香港へ戻ることを希望する人々の訴えに対しても、政府の対応は遅れを見せている。日本や韓国、アメリカ、イギリスなどの主要旅行先やフィリピンやシンガポール、ベトナムなどの東南アジアの一部など、多くの国では2月の時点で中国からの来訪者に対する観光ビザの発行を停止したり、中国人旅行者の入国を禁止したりしていたが、香港政府は中国本土と地続きの入境ポイントを完全に封鎖することをためらっていた。香港特別行政区(以下、香港SAR)の林鄭月娥(キャリー・ラム)現行政長官は、主に物流やビジネスへの影響に対する懸念から、政府は出入境を制限するに止め、香港と中国本土間の入境ポイントの完全な封鎖は行わないと発表した。長官の優柔不断な態度は目下の政治的分裂を超えた批判を招き、北京の中央政府に屈したとして非難された(Ting 2020)。それでも、中国での新型コロナの地域的流行が世界的なパンデミックへと発展したことを受け、政府は3月末に初の2週間の入境ポイントの閉鎖を開始、その後、4月初めには閉鎖の無期限延長を実施した(RTHK 2020)。
2月半ばには、日本での大型客船「ダイヤモンド・プリンセス号」船内における感染拡大を受け、香港政府はチャーター便数機を東京に派遣し、同船から退避する香港人を帰国させた。一方で、政府は3月初めには湖北省の数都市と感染の発生地である武漢で足止めされていた香港住民数名を帰還させることにも成功した。その際優先されたのは、妊婦や高齢者、重症患者、学生など緊急を要する人々だった。だが、感染発生のより早い段階で武漢から香港市民を退避させることができなかったことは、香港政府の北京中央政府に対する従順な態度や、様々な中国がらみの問題に対処する際の自律性の欠如が、海外の市民に対する政府の不手際や愚劣な対応につながったとする批判をも招いている。
マスクを着けて会見する林鄭月娥(キャリー・ラム)現香港SAR行政長官。このマスクは繰り返し洗えるもので、現地の研究機関が開発し、政府の協力によって商品化され、配布された(写真提供:ユー・チュン・クリストファー・ウォン(Yu Chun Christopher Wong)、 出典:https://www.shutterstock.com/image-photo/hong-kong-19-may-2020-carrie-1735072217)
パンデミックの渦中における難しい政治的現状
政府の役割とそれに対する国民の認識は、パンデミックの渦中にある香港において、最も厄介で矛盾をはらむ問題だ。というのも、コロナに先立ち、この街は政府に対する国民の信頼と信用が史上最低レベルに低下する事態を迎えていた。これは、政府が逃亡犯条例の改正案を出したことで、昨年3月末に現地の政治・社会運動が始まったからであり、この運動は新型コロナ感染症が世界的に拡大する中でも続いていた。だが、香港でも世界中でも、今は感染症の大流行によってマスコミと人々の注目が逸らされているため、デモは表面的には落ち着いたようになっている。
より問題が大きく理不尽な点は、政府がソーシャル・ディスタンスの確保やロックダウンなど様々な感染防止規制を課し、さらに公衆衛生上の理由から抗議者の集会や招集を合法的に阻止することに対して、パンデミックが一定のアカウンタビリティと正当性を与えていることだ。また同時に、コロナウイルスは市民の政府に対する依存度を高める要因ともなっている。悲惨で長引くこの病気の負の影響が、ほとんど社会の隅々にまで広がっているためだ。この結果、多くの産業、特に単純労働や肉体労働にかかわる産業は現在、市場の縮小や失業による深刻な打撃を受けている。雇用者と被雇用者、特に社会の底辺や下層の人たちが現在頼りにしているのは、政府が提供する生活保護制度や特別資金援助、たとえば包括的社会保障扶助制度(CSSA)や雇用支援制度(ESS)、防疫抗疫基金(Anti-epidemic Fund)などだ。政府は香港繊維アパレル研究開発センターが開発した繰り返し洗えるマスクの商品化も率先して支援し、新たに発明されたこのマスクをオンライン上で申し込んだ市民に配布した(Parry 2020:m1880)。
このように新型コロナの大流行が、香港の政治情勢に及ぼした影響は複雑で多岐にわたる。この影響は、香港政府と市民の間にぽっかりと空いた穴を、ベールのように一時的に覆い隠している。コロナウイルスの出現は、香港市民の政府や政治家に対する信頼と信用を回復するよりも、むしろ政府が感染防止をリードし、社会的統制・監視体制を敷き、デモ隊を追い払う公正で正当な立場にあることを示すのに役に立った。そして、複雑でほとんど壊滅的な社会・経済への影響は社会の様々な階層や業種に及び、まさしく民主派もそれ以外の市民も、政治的な分裂にかかわらず、社会福祉や安全保障、公衆衛生の分野における政府のリーダーシップとイニシアチブに依存し続ける状態が促された。
今のところ、パンデミックは政治的分裂に和解をもたらしてはおらず、大規模な抵抗運動が残した社会に広がる苦しみやトラウマを目立たなくしただけだ。予期せぬパンデミックの出現によって空白が生じたものの、政治的な溝を埋めるための有効な解決策は示されず、北京の全国人民代表大会(NPC、以下、全人代)と香港SARが手を組んで、この一時的な「和解」と「鎮静化」の時期に付け入る隙を与えたのだ。この事態が生じた背後には、香港社会の極めて長期化した政治的対立と両極化があり、国家安全維持法、とりわけ香港基本法第23条の強引な制定と立法化があった。これは香港における「分離独立や反政府」活動、外国による介入とテロリズムを禁じるもので、今後の抗議運動やデモの多くは違法とみなされるようになる。
逃亡犯条例の改正に反対し、デモを行う香港市民。可決されれば、政府は逃亡犯を拘束し、その身柄を台湾や中国本土など、正式な身柄引渡協定が締結されていない国や地域に引き渡すことが可能となる (写真提供:ジミー・シウ(Jimmy Siu)、出典:https://www.shutterstock.com/image-photo/hong-kong-9jun2019-1-million-hkers-1419790148)
米中対立から香港を考える
2014年の雨傘運動は、香港の選挙制度を改革し、行政長官の候補者を事前審査するという全人代の提言に対し、断固反対を唱える運動だった。長期的な視点から見ると、あれ以降の一連の政情不安と社会不安は、米中の権力闘争の過熱という国際的な状況の結果であり、その表れともみられる。とりわけ、COVID-19の発生源と世界保健機構(WHO)は、米中両国間の絶え間ない対立と論争の2つの主な火種となった。トランプ政権は一貫して中国を非難し、同国がコロナウイルスに係る事実を隠し、感染症の流行を国内に止めることに失敗し、さらにはウイルス操作を行い、これを世界中にばらまいているとさえ言った。米国のドナルド・トランプ大統領は、WHOが「中国の操り人形」になったとして、WHOへの拠出金の停止を命じた。一方、中国政府は、米国内での死者数と感染者数の急上昇という壊滅的な被害が、米国政府の過失と無能から生じたものとしてその責任を問うた。
これと同時に、香港は米中対立が繰り広げられる舞台の一つともなった。2019年11月27日には、トランプ大統領が香港人権・民主主義法案に署名し、同法を成立させた。この法律は米国国務省やその他の政府機関に対し、香港の政治状況の年次評価の実施と貿易上の優遇措置の再検討を義務付けるものだ。この法案は中国側の反発を招き、香港における国家安全維持法の立法化を中国が決定し、裁決した背景には、事実、アメリカの香港内政への過干渉があったと主張された。
結論──パンデミック下の「和解」
2020年6月15日、コロナウイルスの新規感染者がさらに3名確認されたという最新情報があった。今後数年とまでは行かずとも、あと数か月はこの街の行く手に困難と先行きの不透明感が立ちはだかるだろう。パンデミックは、苦悩と憤りの激しいやりとりを一時的に凍結させている。騒然とした社会にコロナが「ハーフタイム」を与えたことで、政治家とその敵対者のほとんど相容れない主張はうやむやとなった。街全体が、また全世代の人々が政治的に両極化されてしまい、今後もこの分裂の間が取り持たれることはなさそうだ。パンデミックが出現し、政府によって「ウイルスとの闘い」が呼びかけられ、一連の感染予防策がとられる中で、この街は今のところ、奇妙にも「鎮静化し」、「再び一体化して」いる。
香港の新型コロナの経験は、この公衆衛生上の危機がいかに我々の「ガバナンス」や「統治性(governmentality)」、「ポスト植民地主義」の理解を再定義するのか、とくと考える異例の機会となった。前例のない、アンビバレントな「一国二制度」を掲げる香港は、異なる統治体制を並べて、国家が公言する「資本主義」と「共産主義」の両立が可能かどうかを調べるための試金石なのだ。長い植民地の歴史を持つ香港は、両者が共存を主張する境界空間として存在する。グローバルな見地から見れば、香港は正反対の2つの政治・思想体系を通じて世界と対話し、資本主義と共産主義との意思疎通を図る国でもある。国家規模で見ると、省や自治区をはじめ、現在は独立した台湾に至るまで、中国の様々な行政領域の中でも香港は仲介者という、他に例のない役割を果たしている。内政面では、香港政府は中国本土と行政区、海外の3つの集団すべてから利益を得る特権を享受していると思われる。だが、仲介者という香港の役割は両刃の剣でもあり、これによってこの街があえなく不安定で危険な状態に陥る可能性もある。他の国際都市に比べると、香港は現在、政府支持か反政府かに選択肢が限られて二極化するばかりで、他に選ぶことのできる可能性の余地はなく、どっちつかずの状態で行き詰まっている。国家の枠組みの中に募った不信感と不和は、香港と中国本土との間に楔を打ち込んだ。現地では、政府と市民の間に埋められそうにない亀裂が存在し、市民は相容れない政治的主張によって分断されている。その最たる例が「黄色(民主派)対青(親政府派)の対立」や「黄色経済圏」だ。
新型コロナの出現は、活気にあふれたこの街の外面に潜む特異性やアンビバレンス、不調和をさらけ出すとともに覆い隠している。コロナは国際社会の注目を香港問題から逸らせる一方で、米中対立をあおり立てている。中国本土との関係における香港政府の力の有無と決意の程もここに映し出される。コロナはまた、香港の景気後退や社会的、政治的な不満を悪化させる一方で、ますます多くの住民が政府に依存する事態を促している。今回の世界的なウイルスの大流行は、地域レベルでの政府と市民の力関係だけでなく、異なる国家間の力関係も作り上げた。政府による監視の強化や、人々のプライバシー侵害に対する懸念が香港だけでなく世界中で高まる中で、利用するサービスの選択など「個人的な行動」が、いかに極めて「政治的な選択」であるかということも、パンデミックによって明らかとなった。香港の新型コロナの経験が示しているのは、国家機構や国際政治の圧倒的な「ディスコース・パワー(discursive power、言説が持つ力)」の中で、地域の政治情勢が、いかに脆弱にも決定的にもなり得るかということだ。
2020年11月26日 公開 (2020年6月17日 脱稿)
翻訳 吉田千春および京都大学東南アジア地域研究研究所
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筆者紹介
エリック・センキット・スエン(孫晨傑): 香港大学学部生。専攻は日本学と中国学。2019年から2020年に交換留学生として京都大学で学び、2018年の夏に東京大学と北京大学に滞在。
Citation
エリック・センキット・スエン(2020)「COVID-19と社会不安の二重の打撃を受ける香港——一国二制度、対外関係と経済不況をめぐって」CSEAS Newsletter 4: TBC.