マレーシア政府は、全国的なロックダウンとみなされている大規模活動制限令(Movement Control Order、以後、MCO)を2020年3月18日から施行した。MCOは5月12日まで延長され、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックを国内で封じ込める包括的戦略の柱となってきた。このフィールドノートは、過去45日間のMCO実施期間中に生じた事柄に関するひとまずの観察と考察だ。そして現在の危機が明らかにしているものは、マレーシア社会に深く根付いたある傾向・パターン、マレーシア国家を特徴付ける統治性(governmentality)の本質だ。ここで紹介するものは、著者が住む西マレーシアからの観点に過ぎず、これを包括的な見方として主張するつもりはない。下に述べる政策や出来事は、明らかに半島マレーシアを中心としている一方、サバ州やサワラク州との微妙な違いや細部を捉えるものでもない。
「ロックダウン」の前奏曲──政治的陰謀と信仰の物語
話を進める前に、まず最近のマレーシアの出来事から一見、無関係に思われる2つのエピソードに注目したい。2つの出来事はいずれも、現在マレーシアで進行中のパンデミックの展開に大きな影響を与え、マレーシア社会に物理的、政治的な衝撃を与えてきた。一つ目の出来事は、マハティール・モハマド率いる希望連盟(Pakatan Harapan)連邦政府の崩壊であり、国会議員らの離脱が原因だった。これによって、2018年総選挙で敗退した統一マレー人国民組織(UMNO)は、国民連盟(Perikatan Nasional)の名で知られる現在の新与党連合に呼び戻されることとなった。この結果、ムヒディン・ヤシンが新首相として2020年3月1日に就任し、2月24日のマハティール・モハマド首相辞任後の政情不安と政治的駆け引きに終止符が打たれた。この約1週間の間は、政治家や議員たちがどの候補者が議会の過半数を制し、首相となるかを決めるために交渉し、国王との個人的な謁見で忙しくしていた。その頃、2月27日から3月1日の4日間、タブリーグ・ジャマート(Tablighi Jama’at)が主催する大規模なイスラム教布教イベントが首都クアラルンプール南郊のスリ・ペタリンで、およそ16,000人にのぼる参加者を集めて開催された(New Straits Times 2020a)。この大規模集会は、不幸にも、これまで(5月1日現在)にコロナ陽性が検出されたケースの中でも重大なクラスター感染の例であることが判明し、その数は全国計6,071件中の2,179件となった(New Straits Times 2020b)。コロナウィルス感染症による死者数は全国で103名で、そのおよそ20%がこのクラスターに属している。マレーシア保健省のヌール・ヒシャム・アブドゥラ(Dr. Noor Hisham Abdullah)保健局長はコロナウイルス感染症に関する連日の記者会見の中で、現在進行中のこの過失を正式に認めている。「ブルネイ保健省からこの集会についてようやく知らされたのは3月9日の晩だったので、9日も遅れてしまった。参加者はその頃にはもう故郷の町や村に帰ってしまっていた。(中略)タイの人口はマレーシアよりも多いけれども、感染者はわが国よりも少ない。(中略)ただし、タイでは16,000人もの人々が集まるタブリーグの大集会は無かった。この集会が無ければ、マレーシアの感染者数はタイよりも絶対に少なかったはずだ。国内感染例の40%近くはタブリーグの集会によるものだ」(The Star 2020a)。このように初期対応が遅れた後、マレーシア政府が取ったパンデミック封じ込め対策には、何か戦略上の一貫性が認められるだろうか。
パンデミックに対する、非常にマレーシア的な反応
当初、MCOは「ウイルスが住民に広がるのを防ぐために」必要だと考えられ、1988年感染症予防管理法および1967年警察法に基づき、これに法的効力が与えられた。国家安全保障委員会(National Security Council)が連日、対策に指示を出す中、マレーシア国家は「感染拡大を緩やかにする」という世界標準になりつつある公衆衛生上の論調を素早く受け入れ、ウイルス拡大に対抗しようとした。このことが現場で何を意味するかというと、全てのマレーシア国境の完全な閉鎖によって、あらゆる国際間の移動がマレーシア国民にも、外国人にも、3月18日以降は禁止されたということだ。この突然の制限令実施の衝撃を一段と身に沁みて感じたのは、毎日シンガポールに通勤している約10万人のマレーシア人である。大勢が立ち往生することとなった。マレーシア人労働者はシンガポールでの緊急住宅供給を求めたが、これは主にシンガポール国民と政府の慈善活動が頼みであった。
警察による通行止め(国防省Facebookより)
MCOの施行以来、マレーシア人は新たな現実にも気付かされた。全国のバリケードに配された何千人ものマレーシア王立警察官が彼らの日々の自由な活動に対する制限を行った。こうしてマレーシアのメディアが「自主的」あるいは、自粛による「ステイ・ホーム」の集団的努力と喧伝してきたものに威圧的な側面が加わった。これはマレーシア人の「ロックダウン」体験の大きな特徴となり、24,000人以上の人々がMCO違反によって警察に逮捕された(Astro Awani 2020)。その例は様々で、「ボーイフレンドに誕生日ケーキを届けようとして」逮捕された人もいれば(New Straits Times 2020c)、「警官を罵った」といういくらかまともな容疑で逮捕された者もいる。11の「臨時」刑務所が新たに建てられ、既存の刑事制度の地平に突如出現した「MCO違反者」の対応に用いられた(Malay Mail 2020a)。
スラヤン卸売市場(保健省Facebookより)
この威圧的な側面は、空間的にも建築としても具体的な形となって現れた。有刺鉄線付き境界フェンスの復活、監視塔の建設、遠隔操作による警察用ドローンの新たな使用法、マレーシア軍武装隊員の姿が国内のコロナ感染症の「レッドゾーン」指定地区に見られるようになった。指定地区は、住民に対するリスクの度合いに応じて、国家安全保障委員会が総合的戦略地域区分に従って定めたものである(レッドゾーンは40名以上のコロナ陽性者が確認された地域、グリーンゾーンは陽性者が発生していない地域)。レッドゾーンは人口密度の高いクアラルンプールの市街地(マスジット・インディア通り地区、スラヤン・バルなど)や、ジョホール州のシンパン・ルンガムなどの地方村落の全域だ。特にこれらの全地区には、強化された活動制限令(Enhanced Movement Control Order、EMCO)という名で上記のような「予防措置」が講じられている(New Straits Times 2020d)。有刺鉄線、そして住民に四六時中、絶えず目を光らせている武装要員の粗野なイメージは、長らく忘れられていた別の時代のもう一つの危機の記憶を奇しくもマレーシア人に呼び覚ます。それは1950年代のマレーシアの記憶である。この時代には、今はなき英国植民地政府が共産主義者の反乱を鎮圧する作戦を実行し、当時の多くの人々が保護された「新村」に入植させられていた。
スラヤン卸売市場周辺に設置されたEMCOのための9つの監視塔(Malay Mailより)
このコロナウイルス感染症パンデミックに対して、マレーシアは特定のリスク要因に応じて住民を解析し、区分する方法を選んだ。ここ1か月の間に保健省のヌール・ヒシャム・アブドゥラ保健局長によって何度も確認されてきたとおりである。連日の記者会見の中、ヌール・ヒシャムは4月22日の会見で、マレーシア政府のこれまでの取り組みについて次のように要約した。「我々はしばしば、全国民への検査を実施するべきかどうかを尋ねられる。全国3,200万の住民に集団検査をするとなると、有効に実行できるかどうかは疑問だ。やはり、指定地区やリスクの高い集団に対象を絞った現在の取り組みを維持していくことになるだろう。リスクが高い地区には強化された行動制限令(EMCO)を敷くよう政府に助言しているし、集団検査も行っている。この取り組みは短期間で大きな効果を有し、優れた結果をもたらすものだ」(The Star 2020b)。
これはポスト開発期における2020年版生政治なのか?
こうした「対象を絞ったアプローチ」、あるいは社会・経済の発展と管理のために特定の集団に的を絞った取り組みに関し、マレーシア国家は豊富な経験と歴史をもつ。それは、1970年代の新経済政策の施行以降、マレーシアにおける支配的で一般的な統治または統治戦略のあり方についての広く深い歴史の一部なのだ。これについて、人類学者のアイファ・オングは次のように説明している。「国家は異なる対象住民に異なる生政治の投資(biopolitical investments)を行い、ある民族を他の民族よりも優遇し、女性よりも男性に、肉体労働者よりも専門職に特権を与える。異なる層の人々は、異なる統治テクノロジー(規制や配慮)の対象となり、異なる社会的宿命を与えられる」(Ong 2005:86)。
現代マレーシアで優遇される「住民層」を対象として、MCOの期間中政府が極めて効率的に「生産的な」都市部の中流階級に財政支援をつぎ込む狙いを定めていることは偶然ではない。政府はこの計画のもと、900万人のマレーシア国民に対し、内国歳入庁を通じた直接送金により全ての納税者に100億マレーシアリンギットを配分している(Malaysiakini 2020)。このような形での国家の保護や配慮とは対照的に、不法滞在の移民労働者の逮捕と拘束を目的に、5月1日と2日にEMCOの敷かれた特定地区内で移民の検挙が実施された。これまでに何百人もの移民が投獄されているが、これは国家が彼らを、その他の住民に感染の「高いリスク」をもたらす集団と分類したためだ(South China Morning Post 2020)。
5月1日にマレーシア首相は、MCO実施期間中に国家経済が毎日、24億マレーシアリンギットの損失に苦しめられていることから、正式にはMCOが5月12日まで施行されるものの、全ての企業は5月4日からの再開を認められると発表した。この条件付きながらも突然のMCO解除に対する首相の言い分は次の通りだ。「我々は国家経済の回復とコロナウイルス感染症対策の間のバランスを取る方法を見出す必要がある」(TodayOnline 2020)。これらの新たな措置については、相当な不満が沸き上がり、40万人以上の人々がオンラインの嘆願書に署名し、政府の「ロックダウン」緩和の取り組みに反対している(Malay Mail 2020b)1。仮にもコロナウイルス感染症が、我々に何らかの教訓を与えたとすれば、それは我々の経済や安全に対する「ノーマルな」考え方が、実は問題の一端であって解決策ではないということだろう。
それでも一つ確かなことがある。マレーシア住民は統治する者もされる者も、この公衆衛生と経済発展の結びつきに関する政治上の行き詰まり、あるいは(各人の見方や感じ方にもよるが)袋小路の中で、これまで以上に深く権力と主体性のあり方に関与し、これにとらわれるようになったということだ(Duffield 2006)。マレーシア人は「経済回復か、それともコロナ感染症から健康と命を護るか」という間違った上に極度に狭い選択肢から抜け出す方法を見つけられずにいる2。
2020年8月31日 公開 (2020年5月5日 脱稿)
翻訳 吉田千春および京都大学東南アジア地域研究研究所
参考文献
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- Duffield, Mark. 2006. Getting savages to fight barbarians: development, security and the colonial present. Conflict, Security & Development Conflict, Volume 5, 2005, Issue 2. https://doi.org/10.1080/14678800500170068 (Accessed 2 May, 2020)
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- TodayOnline. 2020. Malaysia to reopen almost all economic sectors, businesses on May 4, subject to conditions. Today Online, 1 May, 2020. https://www.todayonline.com/world/malaysia-reopen-almost-all-economic-sectors-businesses-may-4-subject-conditions (Accessed 2 May, 2020)
注釈
- 1 緩和された条件付きMCO(CMCO)は、毎年この時期に設定される祝祭日(Hari Raya Puasa)にあわせたイスラム教徒の国内移動を制限・管理するため、現在さらに2020年6月9日まで延長されている。
- 2 COVID-19による全国での死亡者数は105人となった(2020年5月4日現在)。
筆者紹介
ブーン・キア・メン(Boon Kia Meng, PhD.): マレーシアのマルチメディア大学(ジョホール・キャンパス)の研究者で、社会学と比較哲学を教えている。2018年に京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS)で地域研究(東南アジア)の博士号を取得。批判的エスノグラフィー、政治人類学、社会運動などに関心がある。
Citation
ブーン・キア・メン(2020)「コロナウイルス感染症時代の権力 ──マレーシア「MCO」についての記録と考察── 」CSEAS Newsletter 4: TBC.