シンガポール政府が官僚主義的効率性を徹底していることは有名である。2020年1月、いまだ同国で最初のコロナウィルス感染者が検出される前であったにもかかわらず、政府は、今では世界の「ニュー・ノーマル」となったウィルス封じ込め計画を実施するために多機関から成る対策本部を結成した。それ以来5月11日に至るまでに、シンガポール保健省(MOH)はコロナウィルス感染者23,336人、死亡者20人を確認しており、東南アジアにおける感染者数としては最多となっている(MOH 2020a)。感染者数が1万人に達するまでに約13週間、2万人を超えるまでにわずか2週間しかかかっていない。多くの国際的な報告は感染率の急上昇を、ウィルス封じ込めにおける政府の初期の成功をくじくものと指摘している(Solomon and Feliz 2020)。当初シンガポール国民は、「リトル・レッド・ドット(小さな赤い点)」(シンガポールのニックネーム)を誇りにしていた。しかしそれはほぼ一夜にして、パンデミック管理におけるお手本から、超テクノクラート的アプローチの限界という教訓へと変わってしまった(Heijmans and Gale 2020;Fisher 2020;Mokhtar 2020)。
高い感染率を受けてシンガポール当局は、保健省がコロナウィルス検査を10万人あたり2,100人に増やしたことを指摘し、この検査率は他の東南アジア諸国と比べてもっとも高く、米国(1,600人)や英国(1,000人)を含むほとんどの国を上回っていることを強調した(MOH 2020b)。さらに感染率に関する保健省の報告は、市民・居住者、ワーキングパス保持者、外国人労働者の寮という緻密なカテゴリーに区分けして行われている。このように細かな区分けを行う理由は、感染者数の約9割が第3のカテゴリー、つまり建設部門における約30万人の外国人労働者によって占められることを強調するためであるように思われる(Ministry of Manpower 2019)。ローレンス・ウォン国家開発相は、シンガポールでは「2つの別々の感染症に対処している」と強調した。「一つは外国人労働者の寮で起きている感染で、感染者数が急増している。そしていま一つは一般の人々の中で起きているが、感染率の推移は今のところ安定している」と4月9日に語った(Phua and Ang 2020)。ウォン国家開発相は、明確に一つの感染経路において感染が急増していると言及したが(Wong 2020)、彼のその断言は「シンガポールの奇跡」にまつわるより深い真実を呼び覚ましたと言えるかもしれない。人権活動家のキルスティン・ハンが指摘するように、「長い間、市民や長期滞在者、駐在員にとっての輝かしいシンガポールと、その輝きを下支えする過酷な労働に従事してきた低賃金外国人労働者にとってのシンガポール、という2つのシンガポールが存在してきた」からである(Han 2020)。
ここ数週間におけるシンガポールの世論では、大きく分けて2つの議論が交わされている。一つは、パンデミック対応中に「ボールを落とす」失態につながった政府の盲点を問うものである。この議論は、2021年4月に行われる次の総選挙を気にし始めたシンガポール国民の間で盛り上がっている。いま一つの議論は、建設現場やインフラ整備などで働く外国人労働者の利益と福利厚生が、シンガポール社会全体の利益から完全に切り離されているという構造的・社会的な亀裂を論じている。
2つのシンガポールの物語
市民や永住者、帰国者などが含まれる「コミュニティレベルでの感染」を対象にするならば、政府の取り組みはかなり効果的であった。SARSコロナウィルスに対する過去の経験をふまえて策定された緊急時対応計画に基づき、関連する専門知識が集められ、多面的な感染制御の介入が展開された。これには、広範囲の検温、大規模な集会の制限、接触者を追跡できる高度なシステム、効果的な血清学的検査法の開発などが含まれている。シンガポールの状況は比較的管理されていたといえる。2月初旬には、全国紙の一面広告で、無症状のシンガポール人はマスクを着用する必要がないという保健省の指令が掲載された(MOH 2020c)。3月2日には、リー・シェン・ロン首相はシンガポール国民に対し「可能な限り普通の生活を送るように」と促した(Lee 2020a)。それ以前に首相は「あらゆる段階で」シンガポール国民に情報を提供することを約束していた(Lee 2020b)。
疾病発生対応システム(DORSCON)の状態がいまだ最高警戒レベルに達していなかった4月7日、2020年新型コロナウィルス感染症暫定措置法(公共の移動を規制し、事業、課税、裁判所の業務の調整を可能にする一連の法律)が提出・可決された(Singapore Statutes Online 2020)。それまでに政府は、パンデミックを乗り切るためにシンガポール人の家族、労働者、企業を支援する599億シンガポールドル相当の3つの予算を発表していた(Lai 2020a)。これに対応して、さらに厳しい「サーキット・ブレーカー」条例がシンガポール島全体で実施され、ほとんどの企業や学校の在宅運営、あらゆる規模の集会の禁止、ソーシャル・ディスタンシングの厳格な監視が義務付けられた。これらの法律に違反した者には高額な罰金から懲役刑までの重い罰則が課せられ、約3,000人の執行官、いわゆる「セーフ・ディスタンシング・アンバサダー」が日々配置されている。4月下旬、一連の措置は6月1日まで延長された。
慎重な判断が必要ではあるが、「コミュニティ感染」が4月26日までに一桁にまで減少したのは、これらの移動制御命令の有効性によるものである(Zhuo 2020)。症例数は依然として多いが、シンガポールにおけるコロナウィルスの死亡率は約1,000人当たり1人であり、1,000人当たり70人という世界平均を大きく下回っている(Sim and Kok 2020)。これは、シンガポールでの感染者の多くが軽度から無症状の若い出稼ぎ労働者であること、高齢者を守る福祉対策が概ね有効であることと関係していると指摘されている。
高名な元外交官ビラハリ・カウシカン氏によれば、政府がボールを落としたのは、「ほとんどのシンガポール人の目には入らない」外国人労働者に対する社会保障に配慮していなかったからであるという(Ang and Wong 2020)。2月には、寮の管理者たちは衛生基準を強化するよう求められ、入居者たちはウィルスから身を守るための対策を講じるよう奨励された。しかし、4月16日には外国人労働者の感染者数は2,689人と報告され、わずか38人だった2週間前と比べて70倍に増加した。
事態の悪化については、いくつかの要因が考えられる。第一に、外国人労働者が建設、施設管理、主要公共インフラといった場で仕事を続けていたことである。これらの労働は社会にとって必要不可欠なサービスと考えられ、移動規制命令の対象外とされた。無症状の労働者が、他の外国人労働者が頻繁に出入りする場所(特にムスタファ・センター1)でウィルスを感染させ続けていたことは明らかである(Lai 2020b)。さらにウィルス感染が爆発的に増加した最も重要な要因として、労働者の共同生活環境があると考えられる。そこでは12~20人の労働者たちが、トイレや部屋を共用する寮生活が当たり前の状態になっている。
検査や検疫の規模を決定するために、シンガポールにおいて当初行われた封じ込め戦略は、症状があるかないかに焦点を当てていた。無症状の外国人労働者に対して隔離規則を徹底するには、明らかに不十分であった。その後、世界の主要な公衆衛生の専門家たちは、症状の有無に基づいたアプローチには効果がなく、無症候性感染者に対する注意の欠落が、コロナウィルス封じ込め戦略の「アキレス腱」になっていると指摘している(Gandhi et al. 2020)。人材開発省(MOM)のジョセフィン・テオ大臣は、4月22日のBBCのインタビューに対し、「もちろん私達は寮の中で安全な距離を取るための対策をしていました。しかし時計を巻き戻すことができるとしたら、この安全な距離をさらに広げる必要があったと言わざるをえません」と明らかにした(Ng 2020)。
その後、専門の省庁間を跨いだ対策本部が設置され、寮の管理者と協力して感染防止に取り組んでいる(MOM 2020b)。4月27日の時点で、数千人の外国人労働者が居住する目的で建設された43の寮のうち、少なくとも19の寮が隔離地域に指定された(MOM 2020c)。一方で、社会にとって必要不可欠なサービスを提供する数千人の健康な外国人労働者は、軍のキャンプ、水上ホテル、スポーツ施設、住宅開発庁が運営する公営団地の空きブロックに移された。これらの措置にもかかわらず、政府は、特に寮における検査数が人口10万人当たり6,500人に増加したことから、今後数週間のうちに感染の報告数が増加すると予想している(MOH 2020c)。
絡まり合う利害関係
シンガポールでは日常的に、出稼ぎ労働者たちがトラックの荷台にすし詰めにされて作業現場に運ばれていく光景が見られる。この状況は、シンガポールの道路利用者に適用される厳格な自動車安全法の中でも、数少ない例外の一つである(Yadav 2019)。最近では外国人労働者の感染率の上昇を防ぐために厳格な対策が講じられつつあるが、こうした日常の光景は、シンガポール社会がいかに外国人労働者に対してダブルスタンダードを用いることを容認し続け(Lee, J. 2020)、労働者の社会保障をほぼ完全に雇用者に委ねているか(Loong 2020a)を常にわれわれに喚起する。
今回のパンデミックによって、シンガポールにおける外国人労働者を取り巻く労働環境の不安定性が社会全体に影響を及ぼす問題であることとして改めて注目が集まった。そのため、外国人労働者が国家による保護と社会保障の受け手として適切に扱われているのかという問題が、これまで以上に重要な意味を持つようになっている(Loong 2020b)。これらの問題は、Transient Workers Count Too(TWC2)のような外国人労働者の権利団体が、長らく、直近では2020年3月に警告を発してきた問題である(Fordyce 2020)。長期間のフィールドワークに基づく民族誌調査では、外国人労働者に対する「制度化されたネグレクト」、彼らの生活条件の「極端に低水準の」状態、彼らが経験する「社会的苦痛」が記録されている(Yea 2020;Kitiarsa 2014;Ong 2014)。またシンガポールの法学者は、同国における雇用慣行が国家の開発主義的目標に向けられており(Lee, Jack 2019)、「外国人労働者を差別し、シンガポール社会の構成員としては望ましくないものと位置づけている」と論じている(Neo 2015)。シンガポールの外国人労働者に関する広範な研究によると、雇用者が交渉力をほぼ独占的に握っている雇用慣行は、「苦情を訴えるための透明で安全なインフラの欠如」を常態化する。そして「このような不健全な構造が変わらないことが、コロナウィルスのさらなる拡散の最大の要因となっている可能性が高い」(Dutta 2020)。
各国政府が物理的・社会的な距離を取るための措置を課しているにもかかわらず、世界が大きく相互依存していることを私たちは痛感している。外国人労働者との構造的、法的、感情的な断絶は、研究者やNGOの擁護活動にもかかわらず、シンガポールで長年続いている「社会的な距離感」をいっそう定着させている。もちろん政府が外国人労働者の利益を保護するために尽力していることも強調しなければならない。しかし現在、2万人以上の外国人労働者が寮に閉じ込められており、一部の報告書では、今後の彼らの身体的・精神的な健康状態について懸念が表明されている(Teo and Ng 2020)。シンガポールの有権者が外国人労働者の雇用慣行の改革を、政府の重要課題を評価する指標として見なすかどうかに大きな関心が寄せられている。パンデミックが浮き彫りにしたのは、シンガポールの繁栄に直接関係する問題として、外国人労働者の利益は、もはや地域社会全体の利益と区別されないだろうということである。
出典:シンガポール人材開発省Facebook(2020年4月17日)
https://www.facebook.com/sgministryofmanpower/photos/a.2878999595482622/2878993645483217/?type=3&theater
2020年12月9日 公開 (2020年5月11日 脱稿)
翻訳 芹澤隆道および京都大学東南アジア地域研究研究所
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注釈
- 1 ムスタファ・センターは、リトルインディアと呼ばれる区画にある24時間営業のショッピングモールで、日用品や雑貨を安価に提供するだけでなく、外国為替取扱店や旅行代理店も設置している。そのためバングラデシュなどから出稼ぎに来ている外国人労働者たちの溜まり場となっている。
筆者紹介
ジュリウス・バウティスタ(Julius Bautista): 京都大学東南アジア地域研究研究所准教授。専門は文化人類学、東南アジア研究、宗教研究。シンガポール在住15年。
Citation
ジュリウス・バウティスタ(2020)「シンガポールにおけるコロナウィルス ──絡み合う利害関係に立ち向かう──」CSEAS Newsletter 4: TBC.