Malaysia

パンデミック下のマレーシア
--コロナ禍に垣間見た強さと、ちらつく脆さ--

辻 修次
マレーシア大学クランタン校上級講師
Malaysia

パンデミック下のマレーシア
--コロナ禍に垣間見た強さと、ちらつく脆さ--

 

はじめに

不測の危機が訪れたときに、備えていた性質があきらかになるのは、人も国も同じなのかもしれない。このコラムでは、まず5月半ばまでのコロナ禍の状況を概観し、続いて5つのキーワードを挙げながら、これまでマレーシアがみせた強さと、これから露わになるかもしれない弱さを語ってみたい。

 

何が起きたか

2月27日から3月3日にイスラム団体「タブリギ・ジャマアト」がブルネイやインドネシアからも多くの参加者を集め開催した大規模行事が引き金となり、3月半ばになると感染の急拡大がみられた(Wan Abdul Mahan 2020)。これを受け、政府は3月18日に活動制限令を発令し、全土の封鎖に踏み切った。活動制限令には、食料品・生活必需品の購入、医療機関受診を除く厳格な外出制限、礼拝や宗教行事、州間の越境の禁止、全ての教育機関の閉鎖などが含まれる。警察や軍隊が巡回し、屋外での軽い運動や散歩さえ摘発するほど、運用は厳格だった。

活動制限を行う期間は、当初2週間とされたが、延長が繰り返されてきた。発令4週間後からは、営業を許可される業種が徐々に増え、現時点は当初より大きく緩和されてはいるが、全面的な解除は6月7日以降と、まだしばらく先になる。

最初の4週間は、SNSなどでも解除を日待ちにする陰鬱な声が目立った。だが、1か月を過ぎると、1日あたりの感染者が発令当初から概ね4-5割減り、退院者も増えてきたためか、この調子で突き進んで感染を抑え込まなくては、という前向きな声が日ましに強くなっていった。この頃から、時折買い出しにゆくたびに、いつの間にか開いている店が増え、生活の不便も解消しつつあった。人々の鬱憤が制御不能な状態に陥る前に、マレーシアは感染拡大の急性期を乗り切った。

この間、感染拡大の鈍化にも、人々の恐怖心の抑制にも奏功したのは、地理的な移動の制限だと思われる。州間の移動はすでに約2か月間、原則的に禁止されている。最も厳格な移動制限が敷かれた4月には、同じ州内であっても10キロメートルを超える移動が認められなかった。この制約に呼応するように、感染者数の集計は、当初の州単位から、日本の市程度、やがて日本の町程度と、地理的な範囲を細分化して行われるようになった。また、早い時期から、単純に累積の感染者を公表するのではなく、治癒・退院者数を差し引いた数値が公表されてきた。こうなると、人々は、「俺の町では今まで4人やられたが、みんな退院しているし、最近は1週間誰もやられてない」といった身近で小さな数字を参照するようになる。これが漠然とした恐怖感を霧消させることとなった。なにしろ、そうした小さな範囲を越えたくても越えられない暮らしなのだから。

 

垣間見た強さ

この奇妙な時期をマレーシアで過ごし、これまでの急性期に垣間見た強さ、そして、これから中長期的に露呈しうる脆さに思いを致してきた。冒頭でも述べたように、そうした強さも脆さも、現代マレーシアの特性に根差している。

ここまでマレーシアが見せた強さの背景として、強い(強すぎる)行政、若い人口、そしてIT愛好国というキーワードを挙げたい。第一の点は、4月までの日本の顛末と対比すれば、多くを語る必要はなかろう。マレーシアは現在でも行政の末端に至るまで上位下達が徹底し、その頂点にある首相の権威、権限は日本の比ではない。そうしたあり方は、時代遅れの権威主義体制、開発独裁国家と批判を浴びてきたが、今回の危機に限っては、迅速に強権を発動できることは疑いなくプラスに働いた。

マレーシアがこれまで全国で7400名あまりの感染者を出しながら、死者が110名ほどに抑えられているのは、マレーシアという国の若さの賜物であると思われる。私は、首都の高級私立病院と、地方の公立病院の落差を、身をもって知っている。だからこそ、重篤な患者が多発したら、地方の医療施設での対応は絶望的だろうと考えていた。仮に自分が感染し、重篤な症状が出た場合、越境が認められなければ、命の覚悟をしなければならないと真剣に案じたこともある。だが、感染数の統計を追っていくうちに、入院者が短期間で次々に回復していくことに驚かされた。世界的な傾向として、高齢者の死亡率が明らかに高いことを考えると、マレーシアの政治と医療の勝利と喜ぶ知人たちには申し訳ないが、65歳以上の高齢化率6%、人口の64%が40歳未満という人口構成(UN Department of Economic and Social Affairs 2019)こそが大きな救いだったように思う。

この若さにも関係するのが、マレーシア人のIT好きである。マレーシア人の過半数がデジタルネイティブ世代に属する。彼らは開発者として世界を牽引できるほどではないが、エンドユーザーとしては極めて優秀だ。殊に公的機関や教育機関での活用は、日本に先行している。私が3年前に現在勤務している大学に着任したとき、すでに全ての講義をEラーニングと連動させることが義務化されていた。私自身、着任以来、忙しくコンテンツ作成に追われてきた。また、一人当たりの購買力平価GDPがギリシャやポルトガルと同水準にあるためか、スマートフォンは十二分に普及している。従って、国内の教育機関が活動制限令の発令から瞬く間にオンライン教育に移行できたこと、地方の公立学校でさえ目立った混乱がなかったことは、さして驚くことではなかった。教育以外の場でも、マレーシア発の配車アプリ「グラブ」が提供する出前サービスは、かねてから普及していて、今回の活動制限令でも大活躍しているし、ペナン州は、州民への様々な給付金を電子マネーで支給しつつ、州が立ち上げた零細飲食業者・小売業者のEコマースでの消費に誘導するという優れた経済対策に取り組んでいる(Sim 2020)。

 

ちらつく脆さ

次に、マレーシアが今後、露呈しうる脆さについて考えてみたい。その脆さは、エネルギー資源と人の国際移動という、これまでマレーシアの繁栄の礎であった2つの要素に起因する。

エネルギー資源に関するリスクは、今後1-2年の比較的短い期間に、ほぼ確実に露呈すると思われる。マレーシアには、電機電子や観光という大きな産業もあり、一見すればブルネイやサウジアラビアのように極端にエネルギー資源に依存した国ではない。だが、直近でも歳入の4割前後をロイヤリティーや、国営石油企業ペトロナスの配当に頼っている(Ministry of Finance 2019)。程度の差こそあれ、国民が、エネルギー資源の恩恵で低負担高福祉を享受する構図は、ブルネイやサウジアラビアと共通している(辻 2016)。今回の危機に際し政府は、雇用補助金、低所得層への現金給付、税の減免措置など、GDPの18%もの大規模な緊急経済対策を打ち出した(Khalid 2020)。他方、エネルギー資源の国際価格は極端に低迷している。2007-08年の米国発金融危機の時期と比較すると、問題は鮮明だ。現在の原油の国際価格は1バレル20ドル前後、対して米国発金融危機の時期は1バレル100ドルを大きく超えていた。舵取りを一層難しくしているのは、エネルギー資源依存からの脱却を目指したナジブ政権(2009-18年)の財政改革が著しく不人気で、ついには下野につながった記憶だ。活動制限令のわずか18日前、議会内の多数派工作で総選挙を経ず首相に就任したムヒディン政権の行方は、コロナの流行、経済対策の規模、エネルギー資源価格という互いに絡み合った3つの変数に左右され続けるだろう。

対して、人の国際移動に関する脆さは、長期的に見定める必要があり、衝撃の深さは現時点では不透明である。だが、予見されるリスクは広範囲に及ぶ。第一のリスクは、外国人労働者の流入減少である。マレーシアは外国人労働力に著しく依存している。殊に、都市部の飲食店や宿泊施設、建設業、農漁業は、外国人労働力抜きには存続できない。だからこそ、隣国シンガポールで生じた一万人を超える外国人労働者の感染爆発はマレーシアに衝撃を与えた。外国人労働者の主要な送り出し国であるバングラディッシュやインドネシアでの感染が収束しない限り、労働力不足の問題は続くだろう。第二のリスクは、広義の観光の萎縮である。マレーシアは一般的な観光に加え、セカンドホームといわれる高齢者の移住型滞在(小野 2019)、「準英語国」として非英語圏と英語圏をつなぐ媒介留学、医療ツーリズム(小野 2016)などが非常に盛んだ。広義の観光はホテルやコンドミニアムの需要を創り、不動産市場を引っ張ってきた。ゆえに、この産業への打撃が長期化すると不動産の資産価値が全体的に下落し、影響は民間セクター全体に波及しかねない。第三のリスクは、エリート教育の停滞である。これは半永続的に、大陸間の国際移動が縮小した場合にのみ生じうる。今回のパンデミックを機に、英国・豪州が留学生の受け入れを抑制した場合、マレーシアの次世代育成への影響は深甚なものとなるだろう。

 

おわりに

新型コロナのパンデミックは、不意に私たちの日常を奪った。この不測の事態に打ちひしがれず、感染の最初の大きな波を乗り切ったマレーシアの人々に惜しみない賞賛を贈る。普段はのんびりといいかげんに見えても、やるべきときには笑顔のままに事を成し遂げるのが、私の知るマレーシア人の美徳だ。これからも起こりうる感染の波と、経済的な難局を乗り越えてくれることを願い、ささやかな結びの言葉としたい。

 

2020年5月27日 脱稿

 

参考文献

  • Ministry of Finance, Malaysia (2019) “Federal Government Revenue”, in Fiscal Outlook and Federal Government Revenue Estimates 2019. Putra Jaya: MOF Malaysia. (https://www1.treasury.gov.my/pdf/budget/budget_info/2019/revenue/section2.pdf) 最終アクセス2020年5月16日.
  • Norlin Khalid(2020) “Impact of Pandemic on Economy and Recovery Policy”. KualaLumpur: Bernama. (https://www.bernama.com/en/features/news.php?id=1829686) 最終アクセス 2020年5月22日. 
  • 小野真由美(2016)「ツーリズムとしての海外ロングステイ――マレーシアの事例から」『季刊家計経済入門』99, 43-51頁.
  • ――――(2019)『国際退職移住とロングステイツーリズム――マレーシアで暮らす日本人高齢者の民族誌』東京:明石書店.
  • Sim, Steven (2020) “Tech Solutions for the Next Normal”, Penang Monthly, March 2020. George Town: Penang Institute.
  • 辻修次(2016)「マレーシアの成長と格差」『Int’lecowk: 国際経済労働研究』71(5・6), 14-20頁.
  • UN Department of Social and Economic Affairs (2019) World Population Perspective 2019. New York: United Nations.
  • Wan Abdul Manan Wan Muda (2020) “Navigating Solicitudes in the Times of Pandemic”, CSEAS Newsletter, 78. TBC.

 

注釈

筆者紹介
辻 修次: 上智大学文学部卒。マラヤ大学Ph.D(東南アジア研究)。2017年より、マレーシア大学クランタン校上級講師として、国内最貧地域である半島北東部クランタン州に滞在中。専門分野は地域研究(マレーシア、パラオ)、環境社会学、開発学。

 

Citation

辻修次(2020)「パンデミック下のマレーシア──コロナ禍に垣間見た強さと、ちらつく脆さ」CSEAS Newsletter 4: TBC.